こんにちは。平田アルカンタラです。
今回は私の1本。歴代好きな映画ランキング第0位作品であり、ことあるごとにDVDで観てきたが、とうとう劇場で観られました。
この映画に対する私の認識
町山智浩著『映画の見方がわかる本』によると、映画監督としてヒットするまでマーティンスコセッシは低身長の陰キャで女とロクに付き合ったこともなく、ヒット後も寄ってくる女に対し「俺が有名だから付き合ってるんだろ?」と言い続けて逃げられてたそうな。
この感覚って陰キャなら分かるよな。同性でも生まれたときからの陽キャには分からんのです。
ずっと求めても手に入らない。誰にも見向きもされない。繋がりが欲しいし誰かに必要とされたい。そんな思いを強く溜めこみ、終いには体内でもう膿んじゃってる。
でもそんな思いを何かにぶつけたところで即時的には解消されない。だから耐えて日々を過ごして年齢を重ねて諦めていく。それが陰キャの一般的人生。
なかには陰キャでもセンスがあったり時代に乗れたりして世の中に認められる人も出てくる。そうなったら条件的にはもう陰キャじゃない。陽キャというかそれを超えて人生を謳歌することが出来るはずだ。
でも陰キャとして精子から青年までを過ごした人間にはそれが出来んのです。陰キャという生き方が自分であり、それ以外の道が見えん。その結果がスコセッシの上記のエピソードであり、陰キャ特有のもの。
陰キャは陰キャとしか生きられない。幸せにはなれんのです。
カルト映画『時計仕掛けのオレンジ』を観たアーサーブレマー(陰キャ)が、何か大きいことをしたいと民主党から大統領選挙出馬を狙っていたアラバマ州知事ジョージ・ウォレスの暗殺を狙ったが失敗。その手記である『暗殺者の日記』これが原作で
それを読んだポール・シュレイダー(陰キャ)が執りつかれたように猛スピードで書いたものが脚本で
それを読んで感激したマーティンスコセッシ(陰キャ)が監督をしたのがこの映画。
陰キャの連鎖で出来ているのだから、われわれ陰キャの心を掴んで離さない出来なのも納得なんです。
私とこの映画
私はこの映画のおかげで今を生きている。
自分の人生に最も行き詰っていたとき。不意にトラビスを思い出した。前に初めて見たときは何とも思わなかったのに。
トラビスは人生ドン詰まって、社会に対して爆発を起こして、そこまでは良いのに最後死ねず無様な姿をさらした。最後死ねなかった点においてトラビスは無様だ。結局社会に負けている。でもトラビスはやった。やりきってはいないけどやった。自分を爆発させた。それに比べて私はどうだろうか。何もやってないのに絶望してると。
どうせ人生死ぬなら何かやってから死にたい。そうすればトラビスを超えられる。どうせならあの陰キャに勝って死にたい。自分の人生に勝ち星を一つだけ付けたい。ならばここで死んではいけない。
って思って一歩戻った。すぐツタヤいって借りて観た。で終わってもう一回観た。それから一ヶ月ぐらいは、ツタヤでもスーパーでも映画館でもどこ行くときでもジャケット来て、内ポケットにオモチャのハンドガンを入れて歩いていた。しばらくトラビスになりたかった。誰にも認識されていないボッチ陰キャよりもトラビスのような生き方が意味がある気がしていた。
今思うとこのこと全てがあほらしい。自分のことなんだけど、他人の話ぐらい遠い出来事のように思える。そのぐらい日々やられていた。今では人生が少し好転して、あれ以降映画が趣味になって日々楽しんでいる。でもこの映画は僕にとってただの映画じゃなくて、ランキングでも第0位になってる。
そんな思い出映画をこのたびとうとう劇場で鑑賞。
初めて劇場で観ての感想
もちろん圧倒されたけど、終始ニヤニヤもしてた。目の前の大きなスクリーンに過去の自分が投影されているような気がして。
街をさまよいながら自分以外の人間が目に入るたびにムカついていた。いざ人と接触すると自分に価値があるように思わせたくて明るい性格を装った。その結果内面をみせられず、どこのコミュニティにも深く属せなかった。明日世界が爆発して全員死ぬか、俺以外死んで自殺したいなと思っていた。一人で家に居るとき筋トレもする。強くなって認めさせたかった。
力の象徴を手に入れたことで、自分の価値が上がった気になったし自分の価値を認めない奴らを同調させる力を持っている気分で歩いた。スクリーンのトラビスの行動ひとつひとつが、分かるーーってなってニヤニヤしたね。
トラビスはどこまでいっても陰キャだなぁーって。トラビスは女を口説けるしアグレッシブじゃんって突っ込みがあるけど、そういってるやつは陰キャじゃないんだろうな。
陰キャってのはその状況を認めきれない存在。立ち位置に腹くくって満足してそこで生きていくことは出来ない存在である。だからその立場から脱したくてどんな勇気の必要な行動もできる。でも脱せられる常識が無い・器量が無い。すなわち脱するにはスペック不足なのだ。
陰キャとは、世の中を認識し立場を理解し、その上で人生変えたいと行動するのにスペックが足りずにもがき苦しむ。そんな存在なのです。最も苦しい。
その変わりたいからってもがいてもダメというのが伝わってくるから傑作なんですよ。そのくせ向こうからくるとビビッて逃げちゃう。それまでの陰キャとして生きてきた生き方を捨てることに抵抗が出て拒んじゃう。クソな生き物ですよ。
そしてこの映画はあれだけ気持ちを煮詰めて、日々意気揚々と練習して、覚悟をもってやったのに最後失敗する。死ねない。売春宿に来るシーンのタクシーめっちゃカッコいいし、主人に話しかけるまでかっこいい。なのに詰めがことごとく甘くて反撃食らいまくって、あんなに練習してやっと三人。それでも執念でやりきったのに、最後結局足りない。
で世間で祭り上げられつつ運転手に戻る。フラれた女にも話題に乗じてアプローチされる。はっきり言います。これは陰キャとして敗北です。バッドエンドです。音楽でいうところのセルアウトです。ここも映画としては素晴らしい。あれだけ陰キャと気持ちを同調しといて最後トラビスに失敗させて完全には神格化させない。
われわれにはトラビスを超えるチャンスが残されているんですねー。トラビスは陰キャとして頑張った。でも最後負けた。ならば我々もトラビスを反面教師に強く生きようと。最後勝てるように。
まとめ
あらためて観てやっぱり映画を超えた映画だなと思った。
この映画の社会的な意味とかの評論は、タクシードライバーに限りいろいろな人の評論を読み漁った結果、萩昌弘『映画批評真剣勝負』が一番僕にあってました。のでオススメです。なので今回はとても個人的なレベルの話で、陰キャとタクシードライバーとして書きました。
人生ドン詰まりなら観て良い。人生うまくいってるなら観ても分からんから観るな。
オイ陽キャ!おまえのことだよ!
採点 100点
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