またしても人生の小さくはない決断を行ってしまったので、ひとまずこれまでの30年を振り返ろうと思います。
これが私の人生30年の幸福度グラフです。学校ごとに背景色を変えております。

以下、自分のための解説です。
小学校入学前
お金のない家に生まれましたが、特に困難だった記憶は無し。
どこへでも一人で行っちゃって、知らない人と仲良くなる男の子で、今考えると親は面倒くさかったと思いますよ。だって広げたくないのに地域コミュニティを勝手に延伸させられちゃって。子供が勝手になかよくなって、知らん近所のおばちゃん家上がりこんでるんだもん。それは嫌だなぁと親になって改めて思います。が、私個人は楽しかった。田舎だったから自由な空き地は多くて、藪や森の探検のし甲斐もあって。男の子としては出生地ガチャが外れた感覚もなかったなぁ。
幼稚園前後は泣き虫小僧で、すぐ親と離れると泣いていた記憶がありますが、そんなことも大きな弊害にならず、未だに関わっている友人にも出会っております。
あとは、なんかめっちゃモテてました。まじでモテ期だった。言語能力と、人の気持ちを推し量る能力が早熟で、相手の気持ちをおもんばかった発言を心掛けていた。小学生になって消えちゃったんだけど「発言する前に自分の頭で暗証して、変な発言でないかチェック」する癖があり、相手にとって心地いいことばっかり言ってました。そりゃモテるわ。
小学校
小1はやばかった。というのもゆとりど真ん中世代ですが、1年目だけゆとり前。土曜日半ドンがありましたが、本当にきつかったのが「給食を食べきるまで終われない」という地獄制度。これが1年で終わったことが人生でも大きなターニングポイントでしたが、その分この1年はきつかった。
初めてのしっかりした社会生活で、環境の変化も大きいのに、大嫌いな野菜を無理やり食べさせられる。これを良しとしていた時代の決定権を持つ人間は、人じゃなかったんじゃないですか?ほんま頭おかしい決まりですよ。悪法の中の悪法。小1のトラウマで、未だに冷めたごはんが苦手です。
小2からはゆとり教育となり、食器がアルミからプラスチックになり、給食が温かくなりました。行政ほんまにありがとう。
2クラスか3クラスしかない小学校で、悪ガキはいても心まで悪い奴はいなくて、小2以降はあまり嫌なイメージは無し。楽しいことのほうが圧倒的に多かった。
ただ、小4だけすこし落ちる。その年から教職採用された先生が赴任後即担任で、採用までに何年も落ち続けていたらしく、理想に向け燃えていてやりたい教育で頭がパンパンな先生でした。今どうしているんだろうあの先生。当時30過ぎだったから今は50歳超えてるのか。今あったら謝ってくれるとうれしいな。嫌な施策目白押しだったから、良い印象で更新してほしい。
そんな革命家よりの先生に対して、小4の私は飲み込まれていて、先生の側近のような形で学級委員をやってました。これがまた思い出すと恥ずかしくて、、。教材で録画されたテレビ番組を見る際に、民放のCMが流れるとクラスが盛り上がるんですよ。学校の授業中なのにレアな展開だと。それに対して私は「何が面白いんだ。授業中だぞ!」と注意していました。そんな学級委員像が求められていたので。今までは一緒に笑っていた側なのに、急に立場が変わったらそんなこと言っちゃって。これでいじめられないとか、どんだけ優しい学校だったのか。思い出すたびに恥ずかしさと周囲への感謝の気持ちでいっぱいです。いじめられてたら人生変わっていたかもしれない。そのリスクをはらんでいたと思うと、やっぱりあの先生許せねぇわ。
あと大事なファクターが習い事。何個かやりましたがすべて嫌な思い出。自分を成長させてくれた的な印象も薄くて、終始すべて嫌でした。そのせいでその後も正統派な部活に入らず、世代のメインストリームではない脇道を進むことになります。結果として、私の人生の指針である「他人と関わる何かを始めるのは簡単、辞めるのは難しいので、長期契約をするな」ということにつながります。
まとめると、小1は制度が地獄。小4は微妙な先生に飲み込まれて黒歴史チック。でも純粋な人ばかりだったので、大きな争いもなく楽しい6年間でした。
中学校
中1はやっぱり環境の変化が大きかった。私の通っていた地域の別の小学校は荒れていて少し悪い子が多いとの話だったが、そこの子も同じ中学校になってギャップの大きさに驚いた。同じ中学入りたての同級生のはずなのに、まったく文化レベルが違う。一言でいうと”大人びていた”。
よく覚えているのは、初めて違う小学校出身の子と遊んだ時に、それまで私服というものに全く関心がなかった私の恰好を見て一言。「プライベートのイアンソープみたいな私服だな(笑)」
たしかにスポーティーな恰好だったかもしれないが、生まれて初めて服に触れられた。他人の服に触れたこともなかった私には、服装という概念すら存在しなかったので、本当に驚いた。これが服っていうのかと。それから社会人初期まで、”ファッション”に対する恐怖心が生まれてしまった。頑張って服について知ろうと勉強して、親から買ってもらった服から卒業しようとするも、どうしらたらいいか分からない。というか今でもファッションなんてわかっていない。自分では良し悪しが分からないのに、常に他人から観察されて評価されるもの。その結果、他人の目を気にすることが加速してしまい、人生に大きく影響を与えた出来事だった。
他にもコロコロとおはスタでは知りえないことが沢山話題に上がって、新しいことだらけの1年だった。このときに得た人生の真理が「お兄ちゃんがいると文化的に優位で、お姉ちゃんがいると女性がいるコミュニティで優位」ということ。
まぁお兄ちゃんがいるやつは同性から見てもいろんなことを知っていて、どの分野でもコミュニティ内で知識的に優位。マンガでもファッションでも性でも。お姉ちゃんが居ない子は心のどこかで異性にハードルがあって、日常の自分の良さを異性相手に出せない。これはもう仕方がないことで、第1子は自分で普遍的な武器を入手するために彷徨い続けるしかないんだと。
ヤンキーよりなマインドに染まってしまっているやつもいたけど、小学校より幅広い人と関わって、かつ私の小学校のときの深い友人と同じクラスだったので、中1はまぁまぁよかった。ギリギリ何とかなった。
問題は中2と中3。運動部マインドじゃないけど、文化部カルチャーにも全く詳しくない。そんな私が所属するコミュニティが一切なかった。新年度早々二極化しているクラスのどこに所属して1年間生きるのか。本当に悩んでいた。
特に中2はつらすぎて、序盤はたまたま中間層が多くいた隣のクラスに逃げていた。ただ序盤に逃げてしまうとより自分のクラスに居場所がなくなってしまうなと、「7組に逃げるな」と受験生のように部屋に張り紙をして、どうにか自分を鼓舞しながら運動部コミュニティの端っこに居場所を作ろうと歯を食いしばって粘っていた。きつかったなぁ。
別に悪いやつじゃない。性根が腐っているわけじゃないし、いじめられたりもしてない。でも過度なイジリはあった。この2年間で新たに知り合った人で中学卒業後関わっている人はいない。そんな感じ。
そんな中でも中3の時に生徒会長になって、高校へのルートをつなげたのは、私らしいなと思います。別にそんな状況でも、生徒会長になったら面白いんじゃないかと思ったら動けちゃう。
生徒会なんて中1からメンバーが決まっていて優等生の上澄みだけで回していたのに、こんな全くメインストリームじゃないやつが急になったら面白すぎるんじゃないかと。2年間で作った生徒会とは真逆のつながりをフルに活かし「みんなで体制に風穴をやろうぜ」的なムーブメントを作ってみた。みんなで面白がって選挙を楽しもうと。その結果、なんの考えもない生徒会長が生まれて、半年間まっとうな生徒会メンバーの傀儡会長としていろいろな場面で矢面に立ちました。その見返りに、まったく受験勉強をせずにそこそこの高校に行きました。
こう振り返ると中学って本当に難しい。構成員がそれぞれ年齢的に未完成で不安定な状態なのに、ごった煮のように放り込まれクラス分けされて。まだ小さいですが我が子の将来が心配です。中受とか一切考えたことのない人生でしたが、親としてその選択肢もありなんじゃないかと思ってしまう。その選択肢を現実的なものとしてテーブルに乗せてあげるのがこれからの役目なんじゃないかとも思ってしまいます。
中1はなんとか及第点ちっくだけど、中2中3はきっついきっつい時代でした。もがいたなぁ。もがいた結果ギリギリ何かをつかみ取ったなという時代。
高校
来ましたよ。花の高校時代が。
中学で痛感したコミュニティ分けは、下記図の四方の人で集まります。ただ中学は四方に分散しすぎて真ん中がいない。四方は特徴的なので近い人同士で自然とコミュニティを築けますが、真ん中は境界線がボヤっとしていてなかなか難しかった。

それがなんと高校はこの真ん中の人だけで構成されていました。県内全域から真ん中を集めて1学年に!ありがたいなぁ。中学はごった煮ですが、高校は学力選抜がある=同じような努力しかしていない=同じような努力しかしないようなコミュニティ育ち ということで、過ごしやすかったなぁ。
高1からもう楽しい。同じ中学からの進学がとっても多い年だったんだけど、なぜは私のクラスだけ少なくて、どうしよう厳しいなと思っていたが、時間が進むにつれ同じような人間が多いと分かってくる。趣味や好きなことは違えど、人間的な興味関心が似ていて、話せば話すほど仲良くなる。どんどんクラスの居心地が良くなる。なんだこの空間はと驚いていた。
ただ高校入学時に、事前に入部しようと思っていた写真部が廃部になって、やりたいことがなくなってしまった私は何をトチ狂ったのか友人に誘われて合唱部に。これは悪手だった。未だに他人に笑われるほど歌下手なのに。中学時代に学校でやらさせるソーラン節で、通常は生徒会長が壇上で踊るのにリズム感が無さ過ぎてリストラの憂き目にあい、前生徒会長が代役だったのに。音楽なんて絶対やっちゃダメなのに。それでも先輩含めメンバーがよかったので楽しい思い出ですが、写真部づくりに専念するため半年でやめました。長い体験入部としては良かったかもしれない。
合唱部を辞めてからの半年で、部活を復活させるために動き続けた。学校側の規則で必要な5人以上の部員と顧問の先生を確保するため、いろんな人に聞き込み調査をしたり、学校側と調整したり。0から1に進んでいる感じがして本当に楽しかった。友人の友人で暇そうにしてる人とか、写真が趣味という噂を聞いた全く関わってない人とか。そういう人と少しづつつながりが出てくる感じ、RPGで仲間を増やすパートのようで最高でした。
高2はそんな働きが花開く、人生で最高の1年間。まずクラスが最高。高校のクラスを作ったら、どんな均一化した集団でも運動が得意だったり勉強が得意だったり役割分担がある。高2のクラスは奇跡的に何にもない。学年で最も勉強ができず、運動もできない。男子20人弱のなかにグループ分けもない。みんな仲良く、強制力のない連帯でつながっている。こんなに居心地の良い集団なかなか作れない。この時だけ同じクラスだった人でも、未だに繋がっているぐらい。
そのうえで、無事写真部が復活。高校の学校公認の部活とは思えないほど、完全に自由に活動できる状況となった。部室もあれば、学校の各種イベント(全校集会や体育祭)を撮影し放題。しまいには渡り廊下の展示スペースをもらって、作品と称してなんでも飾り放題。「高校で最も大学サークルに近い部活」と称して、特に何もやりたくない層に自由を訴えて勧誘していたら人もどんどん増えてきた。
半年に1度みんなで休日に遠出するだけなのに”写真旅”と銘打って、ただの旅行記を校内に展示していた。本当にただ遊んでいるだけの写真。今だったらグループラインのアルバムですよ。それを印刷して模造紙に貼って、それぞれコメントを書く。これが部活なんだったら、そりゃあ良いよ。最高だよ。
あと、部員全体の活動は週1にしていたんだけど、写真部しか所属していないメンバーは、せまーい部室に毎日集まってただ話していた。何をするでもなく。何をしていたか記憶がないけど、あこがれていた部室だべり文化に、こんな道筋でたどり着けるとは思わなくてひっそり感動していました。こういうのしたかったけど、ちゃんとした部活には入りたくなくて。
高2は文化祭があり、写真部では映像作品を上映することにした。秋の本番に向けて、夏前から毎日部室でアイデアを出し、必要なものを買いそろえて、夏休みの数日間で校舎を自由に使って撮影した。ストーリーのあるストップモーションムービーだが、10分近くの大ボリューム。部員の中には、イラストや画像編集の手練れも居れば、機器をそろえてがっつりした映像編集ができるプロもいた。それぞれが自分にできることを最大限やった結果、文化祭当日は視聴覚室で流しっぱなしだったんだけど、口コミでどんどん人が増えていって、写真部って面白いことをやっていると校内で地位を確立した感が本気でうれしかったなぁ。
高3では、新入生が入ってくるので前年の実績を引っさげてさらに自由度をアピールしたら、最終的に30人を超える部活になってしまった。もう雰囲気が異様です。自由で活気あふれる謎の部活。他のメジャーどころの文化部に匹敵する存在感がありました。
ただ大きくなりすぎてその弊害も。部長の私と執行役2人の計3人で、毎週企画を考えていたんだけど、写真すらそこまで好きでない30人をどう楽しませるか。何をすればみんなで盛り上がるか。本当に難しかった。結局は学校の周辺などに写真を撮り行くぐらいしかないんだけど。でも、部活本番以外の3人での検討会議が楽しかったなぁ。
当時最寄り駅に新しい大きな図書館ができて、そこの展示スペースに地域の絵画コンクールとかの作品が飾ってあった。私も学校公認の部活なんだから写真を飾らせてほしいと思い、突然司書さんに声をかけて、最終的には「○○高校写真部作品展示」として展示までこぎつけたのは、たぶん他の人が思っているより強烈な成功体験として残っています。
ただ同時にこちらで準備する展示物の飾りつけやタイトル表示が雑で、見に行った父親にぼそっと「あれがお前の限界だな」と言われたことは、未だに私に呪いをかけています。父親の真意はわかっています。私個人の推進力はあるけど、雑務含めて他人に頼るのが苦手です。人をうまく使えない。あの時のような、絶対に私がやったらNGが領域ですら、うまく私から依頼できない。その結果自分でやって、低い完成度になってしまう。以降ずっと気にかけていますが、まだまだ克服できてない。これから会社での年次が上がってきたら、より私の足枷になりそうです。
部活以外だと、またしてもあのときの自分がうまくやってくれました。勉強の成績は微妙だったのに、高3進級時に決めるコース分けで”国立進学コース”に進んでくれました。これは先生との調整で、ギリの実績でしたがねじ込んでもらいました。そのおかげで真面目で楽しいクラスメートに囲まれて、特に嫌な思いもせず、穏やかに1年間を過ごせました。また、”国立進学コース”&写真部での結果をプレゼンし続け、底辺国立大学への入学も決定し、私の人生は大きな勝負所だけは良い結果をもたらしてくれるなと感謝しています。(その分日々小さな不幸は山のようにあるのですが、その貯蓄を大きなときに使っているようです)
あと今振り返ると思う高校での改善点は恋愛です。当時はこれこそが正しいと確信していましたが、今振り返るとキャリアハイな状況を生かして、もっと真っ当な恋愛ができたんじゃないかと思います。そのころから王道ではなくマイナーな弱者の戦法が大好きで、なりたい立ち位置先行・憧れ優先で時間を使ったなと。それ以降王道な恋愛をする機会に10年近く恵まれず、私を死の淵に落としかけた主原因になったので、「これがあって今がある」ということをここまで書いていますが、他のルートもあったと夢想してしまいます。
まとめると、人生最高な3年間。どの年も不幸なく、自分の得手不得手を生かして自由を謳歌していました。もう1度やれと言われてもやれる自信はないです。それぐらい謎のパワーがありました。
コメント
前半だけでも読み応えがあるなぁ
中編後編とロングで見たい記事
どうも、写真部執行役員です。
情熱Skype会議、良かったよなぁ。会話と会議の面白さはあの時育まれた気がします。
僕の映像作品、音声作品の原点はあなたの「ブックトーーク」という一人コンデジ映像でした。一人でもこんなに人生面白がれるんだと。
ガルルさん
あなたに言われるまで「ブックトーーク」を忘れていました。あれを覚えているのは世界でもあなた一人だけじゃないでしょうか。そんな大事な一人の素晴らしい活動につながったのであれば、自室で本を積み上げコンデジを乗せて動画を回したあの日の私がしたことは意味がありました。